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更新日:2016年11月7日

清掃工場の今昔~第5回江戸川清掃工場~

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昭和41年10月にしゅん工した江戸川清掃工場(初代)

シリーズ第5回目は、江戸川清掃工場です。
初代江戸川清掃工場の建設は、古くは昭和14年の「東京都市計画塵芥処理計画」にさかのぼりますが、戦争により計画どおりに建設されませんでした。戦後、首都建設事業(昭和27~31年度)、焼却場建設10か年計画(昭和32~41年度)に引き継がれましたが、その後、東京都長期計画(昭和38年2月)の一環としての清掃工場建設計画(昭和36~45年度)に基づき、建設されることとなりました。工事は昭和36年に用地取得後、昭和39年12月に着工し、総工費(主体工事)14億3,700万円をかけて昭和41年10月にしゅん工しました。焼却能力は、600t/日(200t/日×3基)でした。
焼却炉は、水分の多いごみの通気乾燥など、完全燃焼を中心に内外の技術を広く検討した結果、国産のタクマ式焼却炉が採用されました。電気集じん機の採用なども含め、以後につづく連続式機械炉の原型ともいえるものです。
炉の運転操作を、現場で行う方式ではありましたが、都として初めて中央制御方式の考えを一部とり入れ、中央制御室でプラントの運転状況がつかめるようにしました。
また、地域福祉に対する初めての試みとして、工場隣接地に建設された「江戸川区くつろぎの家」に工場から余熱利用による熱湯を送って浴場や暖房に利用しています。このようなかたちの熱エネルギーの利用は、以後のほとんどの清掃工場でとり入れられ、清掃工場と地域との連帯、共存をはかるうえで大きな役割を果たすこととなりました。
しゅん工から20年以上を経過した昭和60年代にはいると、老朽化の進行とともに、窒素酸化物規制の強化やごみの高質化により、焼却能力も定格の70%を下回るようになり、毎年実施している定期補修工事では完全に機能を回復させることが困難な状況となってきました。しかし昭和61年に策定された「第2次東京都長期計画」では、江戸川清掃工場の建替えは昭和66年度(平成3年度)以降と決定されたため、昭和62年、燃焼装置の大規模改造工事を実施しています。

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平成9年1月にしゅん工した現在の江戸川清掃工場(2代目)

2代目江戸川清掃工場は、東京都長期計画(第3次)に基づく清掃工場の新設・建替え推進の一環として建替えがすすめられました。
平成5年1月に初代江戸川清掃工場の操業が停止された後、同年10月から建設工事が開始されました。その後、平成8年8月から試運転が開始され、平成9年1月にしゅん工を迎えました。建設費は約342億円でした。平成2年以来ごみ量が減少をつづけていることもあり、江戸川清掃工場の稼働開始により、都の長年の目標であったごみの全量焼却が達成されました。その意味で、2代目江戸川清掃工場は清掃事業における時代の転換点となった清掃工場でした。
焼却能力は600t/日で同規模であり、300t/日の能力をもつ焼却炉2基が建設されました。炉形式としては、杉並清掃工場、目黒清掃工場に続いてフェルント式が採用されました。
目黒清掃工場でとられた緩衝緑地公園の設置とその一般住民への開放、有明清掃工場から始められた排ガス減温塔、ろ過式集じん器等によるダイオキシン類対策等が、同様の形で引き継がれています。
平成7年12月にしゅん工した有明清掃工場と比較して、基本的なシステムにきわだった違いはありませんが、自動化、省エネルギー、熱利用、公害防止等それぞれの面で各焼却炉メーカが技術とノウハウを競い、個々の技術に熟成が認めらます。2代目江戸川清掃工場の建設に至って、清掃工場のシステムおよび設備構成は安定し始めたといえます。

参考文献及び写真(初代):「東京都清掃事業百年史」より

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